昭和40年08月31日 朝の御理解



 信心の足元が乱れて来ると、怖くないものまでが、怖く見えて来る。ですから信心はその反対の事が、頂ける事を有難い、又は楽しいと云う事になる訳です。信心が無かったらどんなに不安な事だろう、信心が無かったらどんなに心配な事だろう。いや、本当に怖い事だろう。と言う事が言える訳です。どの様な中にあっても、心の中に安心が頂ける、喜びが頂ける、おかげになると確信される。
 信心の足元が乱れて参りますと、恐くないものまでが、怖くなって来る。そこで皆さんの信心の内容と言うものがです。先はどげんなるじゃろかと、と言う様な例えば不安心配いや、または怖くない筈のものが、怖い様に見えて来た時には、いよいよ、自分の信心を改めてみなければならん時だと、言う事が言える訳ですね。どうでしょうか。中にはですね、のん気な人ちゅのがあるですよ。
 信心も出来んでどうとかなる、ち言うごたる考え方をしておる人、ここではちょっとまあ例外ですね。神様が分かれば分かる程、神様の働きを身近に感じれれる様になれば成程、神様が有難いと分からせて頂くと同時に、神様は怖い方だなと、云う事が分かって来る様になれば、一人前だと言われる。ですから自分の信心の足元が狂うて来ると、いわゆる、怖くないものが怖く見えて来る。心配にならん事が心配になって来る。
 所が不思議な事にどう言う様な中にあってもです、本気で神様へ打ち向かい、本気で教えに取り組ませて貰い、実意丁寧の言わば限りを、尽くさせて頂いておるとです。不思議に心の中に、喜びが与えられるだけではなくて、言わば今まで不安であったものが、その不安が消えて行く、またその事がおかげになる元にも、い和場なる訳ですね。ところが今度その、例えば中間がある。
 この中間の人が多いですね、それはチョット信心が中毒して行きよるとですばい、信心が中毒したんじゃ詰らん、お参りはしよるけども、別に有り難いもの頂いて帰る訳でもない、けど参らな気持ちが悪い、まいりゃ気持ちがいい、と言った様な信心では、いよいよ詰らん。足元が乱れておろうが。行いが乱れておろうが、ただ参っておるだけで、なんとはなしにその気が治まっておると云った様なのがある。
 信心が中毒化した事になって来ると、矢張り信心は阿片なりと、信心のない人達が言った言葉が、本当にそのままの事だと信心が、いわゆる阿片の様な物になってはならない。よく部屋に床の間に香炉なんかが飾って御座いますいいもんですね、そりゃもう仕方とうもない花ども置くよりも、床の間にスキットした軸ども掛かって、前に良い香炉なんかがひとつ、こう置いてあればもうそれで、こう部屋の雰囲気はいいんです。
 品の良い雰囲気があるんです。ただ、床の間にです、仰々しくお神様が床をお祭りしてある。それは丁度、香を飾っておる様なもの。勿論香なんかと言うのは、美術品が大体多いですから、見て楽しむと云う事もあるんですけれども、結局、香炉は香炉としての役目と言う物を、果たさせなければ香炉の本当の値打ちはない。そこに馥郁とした香が薫っておる、香が焚いてある、部屋中が、その香の薫りでです。
 その雰囲気が、いよいよ素晴らしい雰囲気になってくる。信心でもそうです。皆さんの家に、例えばお床の間の、一番良い所にお神様がお祭りしてありますがね、皆さん達のお宅に。所が、その神様は、只、お祭りしてあるだけならば、それはただ香炉を飾って、ま、言うならば、楽しんでいるものだけの事。ね、その香炉に火がとぼって、そしてその馥郁とした薫りが部屋中に漂う、と襖を開けた途端に、あぁいい薫りがしとる。
 香が焚いてあるなと、それこそ信心のないものでも、その信心の家庭に入らせて頂いたら、それを良いもんだなぁ信心とは、と、例えば、あぁ信心の話しでも求められる様なです。私は、こりゃなんて言う香が焚いて御座いますですかと。お宅何様がお祭りしてあるんですかと、と例えばその活き活きしたです、そう言う信心の働きが、教えが身に付き、家に篭もって来る。
 金光様のご信心を頂いておる家族としての、雰囲気と言うものが、家族中に自分の周辺に漂うて来る。そういう、私は、状態にならせて貰うて、そこに、私は安心、信心のない時代は腹が立った、信心のない時代は心配になった。不安になった怖かった。それが心配にもならない、怖くもない。心の中に、それこそ馥郁とした薫りが漂う様な、心の中に有難いと言う雰囲気で、いっぱいになる時。
 そう言う心に神様は活き活きとしてお働き下さる。ようし、いよいよ信心が有難いものになって来る。所が、一度、信心が乱れて参りますと、足元が狂うて参りますと、本当に怖くなって来る。だからその怖くなって来ると言う、もう、そこが大体は有難いんです。ですから、はあこんなこっちゃいかん、こんなこっちゃいかん、ちゃんとせないかん、ちゃんとせないかんと言う様な、気持ちがいつも心の中にある訳なんです。
 神様は外さない訳なんです。そして、何かのチャンスの時にです。それが翻然として、改まるなら、改まると云う事になって来る時に、今までの不安焦燥と言った様な物が一掃されて来る。心の中に安心と喜びが与えられる。その安心と喜びが、いよいよ、お陰になって来ると、言う様なです。活き活きとした信心を、身に付けて行かなければいけない。身近に神様を感じておる時といない時は、こんなにも違うものだと。
 それがです。矢張り必ずそれには、活き活きとした修行が、伴うて来るのですから修行いとうたり又は教えを行じ言わば我情我欲の虜になったりしておる時なんです、足元乱しておる時には。本当に我情我欲を放れて、我情我欲を放す所の稽古が本気で一つなされなければいけない。でないとです、唯お取次ぎを頂いておかげを頂くと、成程おかげを頂くので御座いますけれども。
 ただ、漠然として、そう言うだけでは必ず、ただ、香炉は使わずに、香炉は床の間に、飾っておくだけの事になってしもうて。無いよりは増しかもしれませんですたい。香炉を見て楽しむ。なる程、香炉がひとつ置いてあるだけでも、部屋の雰囲気が、なんとはなしに、そのいい事はいい。あそこにゃ床の間いっぱいに、お神様がお祭りしてある。金光様の信心しなさる。
 だから、まあ金光様の信心しよんなさる家じゃけん。例えば、ああ言う事はしなさるまい、例えば、お商売人なら、引っ掛ける様な事はしなさるまいと言う位の効果は、あるかも知れませんね。麗々しゅう、お床の間にお神様でもお祭りしとりゃ。それでは詰らん。自分の心の中から、自分の心の中から私は、そう言う雰囲気を発する様な、有難いと言うものが、二重に香って行く様な、おかげを頂く為に。
 私共の信心内容を確かめてなければいけない。どうぞ改めにゃと、言う所を改め切らんで、おると言う事はもうすでに、足元を乱しておるのですから、ですから例えば、おかげになるって言った様な確信が、非常に薄くなって来る。その反対に、もし万一おかげ頂ききらん時はどうするじゃろか、って言う不安が募って来る。それでは私は、本当の信心生活させて頂いておる値打ちはないと思うのですね。
   おかげ頂きました。